スタッフコラム

巨匠・深作欣二監督逝く

2003/02/01 — 第61号

新文芸坐がオープン準備に追われていた2000(平成12)年10月、記念番組の中で『仁義なき戦い』を一挙に上映することになり、深作監督にゲスト出演をお願いするために電話をしました。当時、『バトル・ロワイアル』が大ヒット中の忙しい時期にもかかわらず、直接電話に出てくださいました。◆「うん、行くよ。一ヶ月前位になったら電話をくれ。」と言って携帯電話の番号を教えてくれました。大監督なのに何と気さくなのだろうと感激いたしました。結果として『バトル・ロワイアル』の海外上映に監督も同行することになり実現しませんでしたが、その時も「文太は岐阜だし、欣也に頼んでみたら」と親切に紹介して下さいました。またまた感激してしまいました。◆その後“深作監督特集”の時もタイミングが合わずご来場いただけませんでしたが、昨年5月、『検証・東映ヤクザ映画』のオールナイト上映の時に念願が叶いました。既にガンに冒されていたわけですが、映画を語る時の生き生きとした表情と張りのある声が印象的でした。◆終戦を15歳の中学生の時迎えた監督は、それまでの価値観の崩れ、社会の矛盾、大人への不信感を強く持った。反骨精神の“水戸っぽ”らしく《焼け跡闇市》が映画作りの原点と言ってました。◆鶴田浩二、高倉健らスター主演の悪と戦うヒロイズムの“任侠路線”は、自分の感覚と違うし、矛盾していると感じたとも言う。その違和感は、大手映画会社の体制との“闘い”になった。そこから菅原文太という存在感のある若い俳優を得て代表作『仁義なき戦い』が生まれた。必死で戦う群衆を通して戦後史をダイナミックに描き“実録路線”という娯楽映画を確立させた。◆《映画作りは戦い》が口癖の監督でしたが、1月12日前立腺ガンのため新作の撮影半ばで自身の終戦を迎えたわけです。享年72歳。ご冥福をお祈りいたします。

— 永田稔 検索